「下山の思想」に違和感

どうして五木寛之の「下山の思想」がベストセラーになっているんだろう。
 
今朝のニュースで紹介していた。
まだ実際に読んでいないので、Amazonの内容紹介から
 
“どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。
すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。
しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。
再び世界の経済大国をめざす道はない。
敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。
「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。
成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。”
 
五木寛之はTVで「こんな時代だからもっと気軽に考えようよ」みたいなことを言っていた。
 
そりゃ、五木寛之は78歳だから、“下山の気分”になっても仕方ないと思う。
でもそんな気分の団塊世代を必死で支える40代以下や、これから山を登ろうとする若者たちがいることをお忘れか?
 
山はいったん麓まで下りてしまったら、また頂上まで登るのは大変なんだぞ。
せめて尾根伝いに縦走か、猛吹雪に耐えて必死にしがみつき頂上目指して少しずつでも登っていけとはっぱかけて欲しいよ。
仮にも人生の先輩なんだから。
 
蓮舫さんが「二番じゃダメなんですか?」と言うのを聞いた時、うちの夫がつぶやいた言葉を思い出した。
 
「初めから二番目指してたら二番にもなれないよ」
 
初めから“小さな幸せ”だけを目指していたら、小さな幸せすらつかめないのかもしれない。

「チンパンジー」になっていく私たち

私たちは「進化」しているのだろうか。
 
そりゃそうだろう。
サルだったころ不可能だった色々な事ができるようになった。
快適な環境に慣れてしまった今、もうサルの時代には戻れない。
 
しかし、もしかしたら私たちは知らないうちに「チンパンジー」になっているのかもしれない。
 
2/7の読売新聞にあった記事。
京大霊長類研究所が行った実験によると、チンパンジーは仲間が助けを求めてくれば、必要な道具を手渡して助ける。
が、人間のように相手の行動を観察してこちらから先に助ける“おせっかい”はしないそうだ。
 
実験を行った山本氏はこう言う。
 
チンパンジーの世界は一対一が基本だが、人間のような社会的集団になると『おせっかい』といった気遣いの行動が生まれるのではないか」
 
私たちの周りには、『おせっかい』なひとが年々減っているような気がする。
濃密な近所づきあいを嫌い、世話を焼けば逆に「空気読めない」と言われる。
私もどちらかといえば“相手に助けを求められるまでは何もしない”側の人間。
 
私たちはチンパンジーへと「退化」しているのだろうか。
いや、チンパンジーはまだ助けを求めてきた相手を助けようとする。
それすら無視し、助けようとしないヒトは、チンパンジーにも劣る。
 
もう一度自分に問うてみる。
 
私たちは「進化」しているのだろうか……。

福島のトマトとおばあさん

一瞬何をしているのか分からなかった。
スーパーの野菜売り場
箱入りトマトが積まれている場所で、
おばあさんがひとりしゃがみ込んでいたのだ。
 
その箱入りトマトは、箱自体はみんな同じで
横に産地のシールが貼ってあった。
「福島産」と「青森産」
おばあさんは、ご丁寧に
福島産のトマトの箱を全部左によけて、
青森産のトマトの中から
美味しそうなものを物色していた。
 
“福島の農作物を食べることで福島を助けよう”
そんなスローガンを政府が掲げていても、
“店頭に出るものはちゃんと放射能の数値を計って
安全なものばかりです”
スーパーがそう宣言しても
やはり気にする人は気にするのだろう。
そのおばあさんも、もしかしたら
可愛い孫にトマトを食べさせるため
福島産を避けたのかもしれない。
人それぞれ、いろいろな考え方はある。
 
でも、それならもう少しさりげなく
「青森産」のトマトをそっと買えばいいのに。
まるで汚いものを避けるかのように
おばあさんの横に積まれていく
「福島産」のトマトの箱。
もしかしたら、その様子を見て
「福島産」のトマトを買うのをやめてしまった人もいたりして…
 
“買わない”という選択権はある。
でも“買おう”と思っている人の
気持ちをそぐような行為は
どうなんだろう?
 
最近、福岡の「ふくしま応援ショップ」の開店が
放射能を心配するメールや電話で
中止になってしまったそうだ。
危ないと思っているのなら、買わなければいい。
近づかなければいい。
しかし福島の農作物を買って
福島の応援をしようと思っている人たちの
邪魔をするのはどうなんだろう?
 
「青森産」のシールが貼ってあるトマトの箱は、
もうあまり美味しそうなトマトが入ってなかった。
しゃがみ込んで長々と吟味しているおばあさんの横にある
形の良い完熟トマトが入った
「福島産」の箱を私はひょいとカゴに入れ、
野菜売り場をあとにした。

髪を染めないで

薬剤師さんからの言葉
「小さい頃から髪を染めるのは、
成長期の髪にも皮ふにもデメリットが多い。
髪の栄養素(たんぱく質等)へのダメージ、
染毛剤による皮ふのかぶれなどが
起こってしまう」
 
そう、これは小学校の保健委員会で
薬剤師さんから言われた言葉なのだ。
 
一度でも髪を染めた人なら分かると思うが
あのいかにも髪や皮ふに悪そうなにおい
(最近は無香料もあるらしいが)
頭皮に感じるちょっとしたかゆみ
髪や皮ふにあまり良くないであろうことは
実感できていることと思う。
市販のカラーリング剤への注意書きが怖くて、
私は美容室以外では髪を染めたことがない。
 
そのようなものを
幼稚園や小学校の子供たちに
平気でほどこす親がいるのだ。
 
習い事などで「どうしても…」といった理由も
あるのかもしれない。
でも、運動会などで金髪に染めた両親の後に続く
金髪の子どもは、きっと違うんじゃないかなあ。
 
学校側が親に対して強制的に
「子どもの髪を染めるな!」
と指導することはできない。
ただ保健だよりなどで注意喚起するだけだ。
もっとも子どもの髪を金髪に染めるような親が
保健だよりを読んで改心するとは思えないが…
 
そのままでも十分きれいでつやつやな子どもの髪。
親が守ってあげようよ。

中国の「墓」事情

昨日TVを見ていたら
現代の中国でのお墓事情をやっていた。
 
中国の一般的なお墓は
日本とほぼ同じスタイルで
墓地を買い納骨して墓石を建てるそうだ。
 
でも最近の北京はとても土地が高く
また中国は人口がとてつもなく多いため
なかなか墓地を購入するのが難しい。
そのため、政府の奨励で
「散骨」に近いことをする人が多いらしい。
 
大人数でまとめて葬式のような儀式をしたあと
芝生のところに穴を掘り
横一直線に骨壺を埋めていく。
その上には特に墓石のようなものは建てない。
これは、政府奨励により「無料」
 
大きなため池のような場所へ
特殊な入れ物に入れた遺灰を
池の中へドボン。
その入れ物はしばらくすると溶けてしまうらしい。
遺灰は池の中へ沈んでいく。
これもたしか「無料」
 
散骨といえば、故人の好きだった場所へ
故人を偲んでまくというイメージがある。
でもこれは「お金がかかるから」という理由。
故人も納得してのことなんだろうか。
 
インタビューでおばあさんが
「死んだ人間より生きている人の方が大事」
と言っていた。
うーん…
 
最後に、これは日本でもあるそうだが
中国版「ネット墓地」も紹介されていた。
娘を亡くした父親が
ネット上で娘の好きな食べ物をお供えしていた。
“画像”でだけど(笑)。
 
いつまでも故人のことを忘れないぶん
まだこのネット墓地の方がマシかな。
池の中に沈んだ、灰になった故人を
ずっと覚えていてくれて
お参りしてくれる中国人は
どれくらいいるんだろうね…

でも「殺す」はイヤ

すごいクイズを出す先生だなあ…と思った。
10月24日付読売新聞の記事だ。
小学校の女性教諭が、算数の授業中に自殺や殺人を題材にしたクイズを出題していて、後日、校長が「不適切な指導だった」と謝罪したそうだ。
 
問題となったクイズの内容は
 
「3姉妹の長女が自殺し、葬式があった。
その葬式に来たかっこいい男性に、次女がもう一度会うためにはどうすればよいか」
 
というもので、答えは「三女を殺す(また葬式をする)」だったという。
 
このクイズは先生が大学の時、友人と楽しんだクイズを出したらしい。
クイズ自体は、実はサイコパスかどうか検査するために用いられるものらしく、通常の人なら「長女の葬式の参列者に聞いて回る」「長女の友人知人に聞いて回る」などと発想するところを、連続殺人者などだと「三女を殺す」という回答になってしまうのだそうだ。
性格診断テストなのだから、たぶん“正解”なんてない。
 
いくら子ども達にクイズをせがまれたとはいえ、先生がこういうクイズを出すものかなあ…と思う。
仮にこのクイズを出すことを許容するならば、次女が男性と会うためにどんな方法があるのか、たくさんの考え方を出させ、その中で「三女を殺せばよい」という意見が出たら、それについてみんなはどう思うか話し合うなど、道徳の時間にすればよいと思う。
(あと、長女が“自殺”でなければいけない必然性は全くないと思う)
 
ひとつだけこの新聞記事で救われたのは、先生が「三女を殺す」を正解として挙げたとき、子ども達がショックを受けた様子だったと書かれていたことだ。
死ぬ、死ね、殺す、殺せ こういった言葉が常に子ども達の回りを飛び交っている世の中でも、この回答に子ども達はショックを受けたのだ。
 
私の娘は、今年の小学校学芸会のセリフで「殺せ!」というセリフを言わなければいけないことをとてもいやがっている。
劇の内容上、それを大きな声で言わなければいけないのだが、それでもいやなので小さな声で言うらしい(笑)。
「ほかの友達もいやがってるよ!」と娘は言う。
 
やはり「殺す」って言うのも言われるのもイヤだよね。
そんな感覚をいつまでも忘れないでいてほしいな。
子どもも親も先生も…

「知っている」ことと「分かっている」こと

目の覚めるような思いがした。
娘の小学校の授業参観で、理科の授業を見たときのことだ。
その時の実験は、TVでぜんじろう先生がやっていた「段ボール空気砲」で、
この段ボール空気砲から出た空気はどんな風に対象物へぶつかっていくのかと
いうものだった。
 
TVでよくやっているものだから知っているかもしれないけれど、
と前置きしたあと担任の先生が言った。
 
「“知っている”ことと“分かっている”ことは違うんだよ。
結果を知っていても、それがどうしてそうなるのかちゃんと説明できなければ、
それはまだ君たちの“知識”にはならないんだよ」
 
その言葉を子供なりに咀嚼したのか、TVでの薄っぺらい知識を子供たちは
ひけらかすことなく、たとえ間違っていても、自分たちで考え、
自分の言葉で説明できるユニークなアイデアがたくさん出てきた。
 

色々なメディアやネットで、私たちはたくさんのことを
“分かった”ような気になっている。
でもそれは本当に「分かっている」ことなんだろうか?
何の疑問も持たず、情報を丸呑みにしてはいないだろうか?
 
“知っている”ことと“分かっている”ことは違う。
先生が子供たちに言ったその言葉を、私は自分自身にこれからの人生、
何度も何度も問うてみたいと思った…