「さようなら」の意味

最近「さようなら」って言葉、使っていないような気がする。
一番最近使ったのは、たぶん7年前、父が火葬されるとき、心の中でつぶやいた。
 
「さようなら」は漢字で「左様なら」と書くらしい。
この言葉について、須賀敦子著『遠い朝の本たち』の中にアン・リンドバーグのある言葉が紹介されていた。
 
アンは飛行家のチャールズ・リンドバーグの妻。
夫婦が千島列島に不時着した後、船でたどり着いた東京で熱烈に歓迎された。
そして横浜から出発する時、日本人が口々に叫ぶ「さようなら」の言葉の意味を知り、次のように書いているそうだ。
 
“さようなら、と この国の人々が別れに際して口にのぼせる言葉は、もともと『そうならねばならぬのなら』という意味だとそのとき私は教えられた。
『そうならねばならぬのなら』。なんという美しいあきらめの表現だろう。
西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。
英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。
それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。”
 
「そう(左様)ならねばならぬのなら」と「あきらめる」
「Seeyou again」(また会いましょう)でも「Farewell」(お元気で)でもなく“さようなら”
そういうものなのだと受け入れるのは、どこか仏教的思想でもあり、日本の美意識を感じさせる。
 
若い子たちが使う「またね」「バイバイ」「じゃあね」
もう二度と会えないかもしれないなんて、頭の片隅にもない。
でも年を重ねることで、気づいてしまう。
これが最後の別れになるかもしれないということを。
大切な人たちの「死」あるいは自分自身の「死」を受け入れなければいけないことを。
 
これから日々“一期一会”を感じながら、この潔く美しい言葉を使っていけたら…と思う。