ある床屋の廃業

昨夜遅く、夫の行きつけの床屋さんから電話がかかってきた。
ドクターストップがかかり、本日をもって床屋を廃業したと言う。
 
その床屋は、夫が独身の頃から通っていた床屋だ。
結婚して遠く離れてからも夫はずっと通い続けていた。
完全予約制で、一番最後の番だと床屋のご主人が美味しいコーヒーをご馳走してくれる。
コーヒー目当てで、夫はいつも一番最後の順番にやるよう予約していた。
「あのおじさんのコーヒーは美味いんだよな」
「長年髪を任せているから、いつも安心できるんだよ」
「今日はおじさんと政治の話で盛り上がっちゃってさ」
床屋から帰ってくると、そんな風に夫はいつもうれしそうに私へ話をしてくれた。
 
夫が最後にその床屋へ行ったのは、二週間ほど前のこと。
いつもと比べて髪があまり短く切られていなかった。
「あれ?いつもと違うよね?」と私が言うと「うーん、そうなんだよね…」と夫も不思議そうだった。
 
帰宅した夫へ行きつけの床屋さん廃業の話をした。
「そうか…この前床屋へ行ったとき、あれだけ剃刀が上手なおじさんが、少しだけオレの口元切ったんだよな。あの時“あ、おじさん老いたなあ”って思ったんだよなあ…」
夫はとても寂しそうだった。
 
店と客の間柄でも、長年通えばお金とは関係ない「あたたかいもの」で繋がっていく気がする。
床屋のおじさんは電話の最後に私へ
「もう髪は切れないけど、近くに来たらコーヒー飲みに来てとご主人に伝えてください」
と言っていた。
千円カットの店では、決して聞くことがないだろう言葉だった。